安倍川花火大会

大会のあゆみ

安倍川花火大会の歩み

第1回花火大会は、観光行事として昭和28年8月静岡西部発展会により企画され、安倍川橋と東海道線鉄橋の間の安倍川川原にて、東海道花火大会として行われました。

翌年の第2回と第3回の2年間は、地場産業の木工業界との協力により、木工祭花火大会として会場を安倍川の河原より行政中心の城内の堀に移して挙行されました。

第4回の花火大会の時より現在の安倍川花火大会の名称となり、安倍川の河原で行われるようになりました。第4回大会から新通学区の協力を得るようになりました。
第4回花火大会は、実施中に未會有の大落雷に遭い中止となり、観客や地元の住民に多大な迷惑をかけ、第5回花火大会は休止となりました。

その翌年、地元住民や県内外から大勢の皆様より花火大会の復活が熱望され、昭和33年7月20日に第5回花火大会が安倍川の河原に夏の彩る安倍川花火大会として1年ぶりに再会しました。
第5回大会より、田町学区、長田北学区、長田東学区と安倍川の流れを挟んで3学区の参加を得て、ここ5学区の協力体制の下で夏の一大観光行事として盛大に行われるようになりました。
当時の花火師は、田畑、池文の2店で、大仕掛花火、安倍川の瀑布、天女の乱舞は5万人の観客を歓喜させました。

第6回花火大会より夕暮れの河原に薄暮花火「けむり」が始められ、10時打ち止めとして初めて2尺玉が徳願寺山高く打ち上げられ、その雄大さに会場を揺るがす歓声と拍手が送られました。

第7回花火大会からスポンサーの数も増え、仕掛け花火も13基、スターマインの提供が29発となり大会の盛大も増しました。

第9回花火大会に安心堂様から「真冬の夜の夢」の大仕掛花火の提供があり、宣伝カー10台で市内を回り観光宣伝を大いに盛り上げました。

花火師も第10回花火大会より、窪田、神戸の2店が加わり、4店となりました。

第12回花火大会は、当時の世相い、青少年非行問題が問われ、午後10時終了を9時までとし、第1回より恒例実施日を7月20日から月末の土曜日と変更することにしました。

第13回花火大会では、浜田産業様が独自のカッパ音頭を作り、花火の合間に踊ったことが当時の話題となりました。昭和36年、国道一号線に駿河大橋が開通しました。

第14回花火大会には、静岡市はアメリカのオマハ市と姉妹関係を結び、その留学生は浴衣がけにうちわを片手の日本スタイルで花火観賞をしました。

第18回花火大会より桟敷席は、経費の面からタタミ表を利用し、河原に敷くタタミ表が、風に舞い多変苦労した思いがあります。

第20回花火大会は記念大会で仕掛け花火・スターマイン30発、尺玉24発、7・8寸70発と、これ迄に見ない最高の花火大会でした。
観客数も35万人と報道されました。

第21回花火大会は、7月27日実施の決定をし、その準備を行っている矢先に7月7日の七夕台風の直撃を受け、市周辺は大水害となりました。

こうした事態に対応して、花火関係者と協議の末、開催日を1ヶ月遅らせて8月24日として開催しました。

第22回花火大会より市清掃課で大会の翌朝、会場清掃に5台の車で協力してくださいました。

第25回花火大会は、記念大会として、盛大に行われました。総会に規約案が提出され、部分改正はありましたが、現在、この規約にて大会運営がなされてります。

第26回花火大会には、静商裏のスポーツ広場を観客席として拡大しました。一部スポンサーの招待席として利用し、現在は当初から安心堂様を含め、8スポンサーが利用しています。

第27回花火大会に、花火大会を盛り上げハッピを作り着用するようになりました。

第30回花火大会には、静岡第一テレビ様の協賛を得て、前夜祭の盆踊りを演出しテレビで放送されました。そこに市内の婦人や子供が参加し、安倍川の河原に音頭に乗って華麗な踊りを花としてそえてくれました。
30回記念に招待した名物新居の手筒花火は、豪華勇壮に火炎が天に昇り、若者が叩くバチ音は、夜空に勢いよく響く駿河太鼓が安部川の河原に演じられました。

第32回花火大会より特別招待席を廃止して、全席を一般観客席として大勢の方々に花火を満悦していただきようになりました。
第34回花火大会では、静岡商工会議所青年部「くろがね会」様の協賛により、安倍川蓮台越競争6チームにより、夕暮れの河原に水しぶきあげて行われました。
第35回花火大会にて、観光誘客に力を入れ始めてカラー写真の大型ポスターを作り、JR東海の各駅や市内各所にはって宣伝しました。
記念大会にうちあげられた花火は、7,000発で、尺玉20連発が夜空を焦がし仕掛け花火の美しい模様が夜空に咲きました。

第38回花火大会は、30数年ぶりの2尺玉の打ち上げ等、雄大なスケールとなりました。
その年8月静岡市を中心に平成3年度全国高校総体が盛大に開催され、高校総体に合わせて1週間遅らせた8月3日に開催となり、県内外のお客様と高校総体の役員選手の皆様を招待しました。
そこでは火薬による音楽と、ミュージックシンセサイザーの生演奏によるスーパーセッションが実現しました。
この「花火音楽」は、大会初の試みで真夏の夜の夢を乗せた新たな感動を呼び起こすにふさわしい企画でした。

回は進み、平成15年には、半世紀となる第50回記念大会を盛大に執り行うことが出来ました。



平成17年第52回大会は、政令指定都市『静岡』の誕生を祝う記念大会として開催されました。今や観客数50万人と云われる迄の大会規模になりました。
この安倍川花火大会は、全国的にも希にみる組織で、市内の一部地域(駒形・新通・田町・長田北・長田東の5学区)が企画運営する正に民間主導の大会です。
その基礎作りをした初代会長の故蒔田忠兵氏、次に受け継いだ故大渡紋弥氏の活躍も見落とすことはできません。
そして、第6回大会の昭和34年からご活躍され、昭和63年10月の第35回記念大会の準備半ばにて他界されました故酒井源太郎氏が、3代目会長として安倍川花火大会を磐石不動の大会に築き上げてくださいました。
会長を盛り上げ実行に力を注ぎ、今日の運営まで伸ばし上げた西部発展会以来の人、故今井国蔵氏。
その後任の故丸尾文彦氏、大会の会計として初代より長期に渡り大会経理を担当した服部鍈子郎氏。
同じく初代より庶務部長を担当し、対外的事務処理全般をつかさどり、今日の対外関係のみちを後進に指導してくださった横山博司氏。
このような諸先輩方が第1回花火大会より積み重ねた努力の遺産を、私たちは受け継ぎながら市民の心の安らぎの場として、また、花火を愛する人達の期待に沿える「安倍川花火大会」へ発展させていきたいと考えております。